カカ島区制作記(かかとうくせいさくき)

はじまりは1994年4月

当時ボクはファンタジー雑誌(ざっし)にマンガを掲載(けいさい)させるために、「自分はどんなファンタジーマンガを描けるか?描きたいか?」悩(なや)んでいました。
仕事の節目(ふしめ)に1ヶ月の休みをもらうことができた時に、1Kのアパートを借(か)りて毎日家族と離(はな)れ、そこに通ってマンガのことを考えました。

空想作品のための空想世界(作品世界)もあるけどボクは現実世界あっての作品しか描けない気がします。
どーも自分は空想的な創造物(そうぞうぶつ)や造形(ぞうけい)・キャラクターを作れない人のよーなのです。
でもそれは自分の事として、しかたないので、未来をネタに自分が描けるファンタジーを捜(さが)していました。
しかしマンガや映画、いろんな作品の中に未来像は提示(ていじ)されているけれども、
それらはほとんど混沌(こんとん)としていて破壊的(はかいてき)な未来像であったり、超(ちょう)ハイテクな未来像だったりです。
自分ではそういう世界には共感(きょうかん)できないし描く気にはなれませんでした。
そういう世界はドラマを作りやすい世界観(せかいかん)ではあるけれども、そんな未来像ではなく・・

やさしく素朴(そぼく)で、むしろどこか懐(なつ)かしく、それでいて新しい未来像。
そしてそれが現代社会(げんだいしゃかい)の先にある、決して夢物語でない現実可能(げんじつかのう)な範囲(はんい)の未来。

未来をそうイメージした時、それを、本当にある世界として、舞台(ぶたい)をつくり、物語をつくり・・・、
自分が描けるファンタジー「未来エコファンタジー」にたどり着いたんです。

地球環境を考える上で、「持続可能(じぞくかのう)な地球」というアプローチの仕方があります。
環境を維持(いじ)しつつ適度な発展を目指すという考え方であり、その社会・経済(けいざい)のあり方が世界的に議論(ぎろん)され始めています。
手塚治虫(てづかおさむ)の「鉄腕(てつわん)アトム」が当時人々に近未来(きんみらい)のイメージをあたえ、ある意味で20世紀の近代化をひっぱってきた部分があるように思うんですが、
さて「持続可能(じぞくかのう)な地球」のイメージってなんらかのメディアで提示(ていじ)されているかな?と見渡(みわた)してみても、それらしいものはありません。
−危機感(ききかん)をあおったり、まじめな環境の番組はありますが、イメージとして楽しい未来ってないんじゃないでしょうか?
想像の世界が、強い想いが、やがて本当になる時が来るのなら、世紀末的(せいきまつてき)な想像とは違う、少しでもポジティブな未来像を想像しうるように、
マンガという手段(しゅだん)を使って提示(ていじ)できるかな、と思ったわけです。

ボクの文明に対する解釈(かいしゃく)


アフリカで、コーヒー農園を作るというんで、自分の畑を手放してコーヒー農園に入ったケド、
コーヒーは結局(けっきょく)安くで売られて自分の食べるものもろくに買えずに貧困(ひんこん)が広がった。・・・
という話を聞いて、考えてしまいます。
「Aさんが一人でBさんの分の食料をつくることができたら、Bさんはヒマになる。そのヒマな時間が文明となる」が基本(きほん)じゃないかな?と思うわけです。
一人の食料生産性(しょくりょうせいさんせい)の高さがあってはじめて高い文明の構築(こうちく)は可能なはずです。
そうでなければ、どこかのだれかがたんにギセイになってる上にある文明なんて滑稽(こっけい)です。
一人の食料生産性(しょくりょうせいさんせい)を高めるには、大規模農業(だいきぼのうぎょう)のように一人が効率(こうりつ)よく多くの食料を作るというのが現在の方法です。
ですれど、それは先のアフリカアの矛盾(むじゅん)を招(まね)きやすいように思います。
自らの文明は、自らの地での食料の自給(じきゅう)が基本(きほん)、とすることでむりなく適度(てきど)に文明化できるのではないでしょうか。

未来の科学技術(かがくぎじゅつ)が現在の問題の全てを解決(かいけつ)してくれる、という幻想(げんそう)ににもにた期待を元に、一極集中(いっきょくしゅうちゅう)の大量生産(たいりょうせいさん)
一方的な消費を続けていくということは、どうみてもそんな文明は長続きしそうに見えないのですが、どうでしょうか。

マンガの中の設定

そんな考えがベースでマンガの中の「島区制(とうくせい)」では各家庭の目標自給率(もくひょうじきゅうりつ)は30%(これは法律(ほうりつ)なのかわかりませんが)などと勝手に設定しています。
それは一見ムツかしい事のようだけど、各家庭レベルでの食料最適生産(しょくりょうさいてきせいさん)の研究(けんきゅう)がマジではじまれば、
各家庭の排水(はいすい)・汚水(おすい)のサイクル化をふくめてあんがい不可能(ふかのう)なことではない、とボクは思っています。
かくて、屋上やベランダやらの農園や、魚やニワトリの飼育(しいく)が各地域(かくちいき)、各家庭(かくかてい)で必要(ひつよう)となるのです。
「島区制(とうくせい)」ではエネルギーも基本的(きほんてき)に自給(じきゅう)と考えていますが、もともと資源(しげん)のない国ではきびしいようにも思います。
それについては時間という価値観(かちかん)をちょっとゆっくりさせることでいろいろ解決(かいけつ)できるコトがあるように思います。
移動(いどう)の時間。新製品(しんせいひん)のできるまでのサイクル・・・などなど。
1日でできること、1年でできることをちょっとのんびりさせることでエネルギーの消費(しょうひ)はかなりおさえられるのではないでしょうか。
ひとつ言えるのは、石油等の巨大エネルギーを手にしたのはたった100年程度(ていど)前で、自由に使えたのも短い間である、ということ。
それを持たないで長い間人類(じんるい)は生きてきたんだといういことです。
地域(ちいき)ごとに使えるエネルギーの量が違ったりしたら「島区」間格差(かくさ)がどんどん広がる、という懸念(けねん)もあります。
ある「島区」ではエネルギーを使いまくり、大きい建造物(けんぞうぶつ)をどんどん作り、いっぽうある「島区」では森に囲(かこ)まれて静かに暮らしている、などなど。
でも考えてみてください。そうした格差(かくさ)がある意味で豊かな地域独自(ちいきどくじ)の文化を作り出すでしょう。
「カカ島区」とはまったく違った「島区」が存在(そんざい)している、と考えるのは楽しいことです。

ちなみにマンガの以上のような設定は1Kの狭(せま)いアパートで考えたんですが、後でインターネットでエコロジーなど調べてみると、
1980年代にノルウェーの哲学者(てつがくしゃ)アネル・ネスという人が「ディープエコロジー」という思想を提唱(ていしょう)し、
その中に「生活地域主義(せいかつちいきしゅぎ)」という発想もあることを知りました。
「島区制(とうくせい)」と印象(いんしょう)がにているので驚(おどろ)いたことをおぼえています。

新しい価値観(かちかん)へ

エネルギー問題・人口問題、他クリアしなければならない問題も多いし、はたしてそんな世界で人々はいきいき生活できるのか?
との疑問(ぎもん)もあるかと思います。ボクにも未知(みち)な部分は多いです。なにせ未来の事ですから・・・(笑)。
エコロジーを語るときに、一種(いっしゅ)の疑問(ぎもん)として「一度味わった便利さはなかなか手放せない」とよく聞きます。
生活が一見不便(いっけんふべん)になることへの抵抗感(ていこうかん)のあらわれです。
「便利」と思っていることをまず疑(うたぐ)ってみることです。そうすることで別の価値観(かちかん)が見えてくる場合があります。
「カカ島区」ではスピードのでないふきっさらしの小さな自動車に乗ってますが、それはみじめなことでしょうか?
ボクは自転車で通勤(つうきん)してますが、それはみじめなことでしょうか?
自動車で通勤(つうきん)する人は、雨の日にカッパを着て濡(ぬ)れて走るボクを見て同情(どうじょう)するでしょうか?
自転車には自転車なりの価値観(かちかん)があるからボクは自転車に乗ってますし、みんなもそう思っているでしょう。
決してみじめさをがまんしているわけではありません。
(よう)は、価値観(かちかん)は変化するし、多様だ、ということです。
これからの世界はさまざまに価値観(かちかん)を変化させながら変わっていくでしょう。
それを受け入れ、楽しむことです。
頭の固くなったおとなは時としてそれについていけないかもしれません。
だけど、だからこそ新しい未来像を作り出して実践(じっせん)して行けるのは、新しい子供たちであるような気がします。

そういう価値観(かちかん)や環境の変化に耐(た)えられるように、生命は世代を重ねるのかもしれません。