QさんAさんの対談コーナー (その1)
この対談は環境について友人とメールなどでやり取りした内容などを元に構成してます。
なにか答えを出そうというのではなく、話すうちになにかわかってくることもあるだろう、というのりでいきますね。

1.小さなガラス球か?
第7話トスカ10の夢で、テクノロジーの力で作った箱庭の世界をわっかの切れた世界と言い、
それと対比して自然の循環力のある世界を命のわっかと言っていますが、
全ての営みがぐるぐるとまわるわっかの世界(循環型世界)は、
海藻とプランクトンと魚だけで安定した小さなガラス球の世界と同じなのではないかと思うのです。
何か調和を乱す動きがあれば、あっという間に破局に向かう世界なのでないかと・・・。
つまり、人間が1から10まで計画できる脆弱で人工的な世界へと繋がる考えなのではないかと思ってしまうわけです。
それはちょうど永久機関の危うさにも似てませんか?
ガラス球の世界が不安定に見えるのは、その容量が小さいからです。
循環型世界が脆弱と言う発想とは関係ありません。
ガラス球は生命が循環しながら微妙なバランスで保たれている、というモデルではないでしょうか?
小さな水槽で魚を飼うのは難しいですが、大きな池ではほっといても魚は生き続けます。
現在の都市周辺を見ると、安定してるはずの大きな池でさえ魚が住むことが難しくなるほどバランスの悪いコトになっているのです。
そこが問題なのではないでしょうか。
地球は大きなガラス球です。その調和を乱しているのは現在の先進国が続けてきた一方通行の産業活動です。
その流れを大きく変えることができるかどうかがここしばらくの課題でしょう。
問題が大きくなり目にみえるようになってから方向転換するか、ある程度予測して対処していくか?
日本ののろのろした対応と世界の動きに興味あるところです。
2.安定か?不安定か?
地球の安定を突き崩す形の産業社会を変えて、安定な(魚が自活できる池のような)循環社会を目指すのが大切であると言う話でしたね。納得です。

ではタイムスケールを少し広げて考えると、
年単位で、ある生物種の数や活動範囲などの繁栄度合いを観測すれば、年毎に変化する不安定さが見て取れるでしょう。
しかし、数10年単位で観測すると、ほとんどばらつきの無い安定した状態を見る事が出来るのではないでしょうか。(人間の活動はこの祭無視してみます)
これは、地球という大きなガラス球の持つ包容力、循環の力だと思います。
しかし、この循環による安定は、必ずしも定常状態を、長期的に見て不変の状態を示す訳ではありません。
何故なら数100年数1000年の単位で観測すれば、人間の力によらない環境の変化が起こって、生物種の繁栄も大きく変化するからです。
つまり大きなタイムスケールで見れば、地球は、変化し続けています。
しかし、机の上に乗るガラス球の世界は違います。
海藻とプランクトンと魚の3者(厳密には太陽光なども供給される)が循環し、安定していますが、変化を受け入れる余地はほとんどありません。
その目指す先が不変の定常世界、小さなガラス球の管理であるなら、簡単に失敗し得る脆弱なものなのではないか。
そして失敗した時の被害はとても大きくなるのではないか。
循環のわっかを認識した時に、そのわっかが閉じたものであれば、小さなガラス球の管理へと向かってしまうのではないか。
そんな懸念を抱いてしまいますが、どうでしょうか?
変化に対して生き残るためには多様性が重要ですね。
循環社会が単純なシステムを継続することで維持できるのならルーチンワークのように脆弱になると思います。
ただ、小さなガラス球のように簡単で手間いらず、ということはまずないでしょう。
多くの人類と生命を維持するのは実際困難な事だと思います。
エネルギーや生命の循環を管理する技術は複合的な技術が必要となるでしょうしかなり多様な様相を呈するのではないかと思います。
そういう意味では現在のマクドナルドなどを始めとする文化の画一化のほうが問題ではないでしょうか?
まさに現在は脆弱な世界になりつつあるのかもしれません。

循環社会実現には、地域に適したそれぞれの循環技術が必要であり、
それらの地域性は多様性につながり、
ひいては全体として変化に強いシステムとなると考えられないでしょうか?
補足:こういう話をするときに、太陽の寿命と同時に地球も寿命があるから、人類は可能なことをとにかくやって、未来は新しい惑星を目指す、
という発想をすることと、現在の産業が縮小されるイメージのある循環型社会を敵対視することがあるようですがそれは間違いです。
時間のスケールが違いすぎます。この辺の話は別の機会に。
3.多様な世界を管理できるのか?
「循環」に続いて「多様性」と、環境を語る上で欠かせない単語が出てきて面白いです。
循環型社会は、多様なシステムを積み上げる事で成り立つ。
このビジョンは正しいと思います。

稲が、病気の流行か何かで育たなくなったとしても、他の作物の栽培に
切り替えれば、その社会は生きのびることが出来ます。
どうしても稲を作らねば生き残れないような、膠着した社会が生まれる事を恐れて今迄のメールを書いたんですが、
そのような社会への道筋を考える方が大変かと思います。
自然の回復力・弾力性のはばを損なわないように社会を持っていくのが、
循環型社会の構築手段であると考えれば、物事がよく見えそうです。
でもこの多様性を想像しようとすると、頭がクラクラしてきます。
この多様性の全体像を、人間が認識し、管理する社会は可能なのでしょうか?

実際に、そんな途方も無い社会を想定することは出来ないでしょう。
私なりに循環社会の一部を想像してみましょう。
単純に鉄だけで出来たフライパンを想定します。それが使えなくなった時、
溶かして別の製品を作る施設はそれなりの規模を有しますし、
再生産された物を使用する人が見つかる為には、大きな社会が必要です。
循環に必要な規模は、一つの製品だけでも大きいし、生活品全般を見るだけでも、規模はひたすら大きくなります。
その中で完全なリサイクルを目指そうとすれば、個々の製品に集中したシステム(会社など)を作り出す事になります。
集中と大規模流通が生まれました。
また同時に、労働の専属従業(書類を処理する仕事だけに従事することなど)が起こるでしょう。
それで、こういった大量・集中の規模の限界ですが、これは何によって規定されるかと言うと、
リサイクルの処理能力と、リサイクル過程での製品のうち、最も需要の少ない物の流通量によります。
この規定を超えての流通は、資源の一方的な搾取と大量廃棄を生み、環境の激変を招きます。
これが理屈ですが、「処理能力がこれだけだからそれ以上活動するな」では実際に対応できないでしょう。
相手は人間です。「制限する」と言う視点だけでは、状態を長期的に維持・持続させていく事はできないに違いありませんし、さびしい社会です。
そこで、任意地域ごとにおいて、食料・エネルギーの自給を目指す事を考えると、秋元さんのエコファンタジーの世界になるんでしょうか。
これだと、地域間の多様性の増大から、広域に渡る大量流通の縮小・分割を促し、
リサイクル過程製品の需要の差を縮める働きを期待できるかも知れません。
また、リサイクルの輪を日常で目に見える範囲に置き、生産活動においても、全体的な視野で工夫するようになる事も考えられます
まさにボクはそういう未来に対する漠然とした不安というか不確かさを軽減するために「カカ島区」をはじめた、というのはあります。
今とは違う社会を構造ごと理解しようとするのは無理があります。
理解するより前にその世界になんとなく「あこがれる」必要があるのではないかと思うわけです。
1960年頃に鉄腕アトムや映画で高速道路や高層ビルが立ち並ぶ未来を提示して、その世界はあこがれとしてみんなの頭にインプットされたはずです。
決してそんな世界がどうやって成り立っているのかは二の次で
とにかくそんな世界はすばらしい、というイメージが現実の世界に反映されてきた部分もあるのではないかと思うわけです。

循環型世界の成り立ちをイメージするよりまず「循環型世界っていい感じかもしれない」
と思わせる必要があるように思います。(洗脳みたいで強引ですが)
メディアでは案外そういう視点で未来を描いてない気がします。
あくまで理論的に危機感をつのって循環型世界に移行しましょう、って。
危機感からだけでなくあこがれもあったほうがより変化が加速します。
4.あこがれの効用
そうですね。神のように全体像を設計するのは無理です。
今の社会の仕組みだって、理屈で解明して働きかける事は出来るけど、
そんな理屈より先に現実があって、その中で通用する理屈を考えているのですし、
未来社会も、先ず出来る事が行なわれて、徐々に全体像が見えてくると言う部分はあると思います。

あこがれの効用は変化の加速だけではないと思います。
つみきを積み上げて世界を作るだけでは、「土台にこの形のブロックを使ったんだから、上に載せるのはこの形で、全体像がこうなるのも仕方ない」

と言う風に現状追認になり易いかも知れませんが、
あこがれがあれば、「それじゃあ違うものになってしまうからこっちのブロックを使おう」

となり易いかも知れません。観念的過ぎるかな?
あと、一つのあこがれは、その他様々なあこがれを誘発してくれるとも思います。
5.循環社会はジミなのでは?
ところで、循環社会ってけっこうジミなイメージありますけど、その世界において人々は果たして活き活き生活できるのか?っていうのはどうですか?
簡単に言うと、身近な達成感と夢のあるビジョンがあればいいのかな、と思います。
今だって、友達とトランプをして一番で上がれば嬉しいじゃないですか。
それとオリンピックや万博のような国際的な行事やプロジェクトも夢あるビジョンを与える上で必要かな、とも思います。
6.もし本当に循環社会に変貌するのならば、おおげさに言うとそれは産業革命に匹敵するほどの大きな変化だ!たのしみ
カカ島区では飢饉にどう備えているの?とか
医療技術の発展・行使に関する生命倫理観はどうなるか?とか
ここら辺も良ければまた今度話しましょう。
うまく返事になってないかもしれませんが、どうだったでしょうか?
ぜひまたお願いします。(だれか助け船も出してね)
今の日本が循環社会を目指しているかというとそうではありません。
表面的にはリサイクル法だとか言ってますが、ここで話した循環社会とはまだまだかけはなれたものです。
人々の価値観の変化がなければ社会全体の変化はありません。
もし本当に循環社会に変貌するのならば、おおげさに言うとそれは
産業革命に匹敵するほどの大きな変化だと思います。
生きている間にその変化を体験できるかどうか密かに楽しみにしているのです。