主に本の「はじめに」部分です。ある方から「はじめに」の言葉を読んで感想をいただいたので再掲載します(2018年2月)

「叙情派ひとつ2017」より

以前、障がいを持った方の話をネット動画で聞きました。
「自分の障がいの今いる地点から
少しでも新しいことができる事が楽しみである」
と話されていました。

確かにそうかもしれない
誰だってそうかもしれない
と思いました。

先日、音楽家の坂本龍一さんの記事を読みました。
「常にまだ自分から出てきていない
 新しいものが出てくることを望んでいる。
 今までやったことのない音楽とか音、
 アイディアが出てきたときは非常に嬉しい。
 それが僕にとって生きる事」

商品となるマンガを作れる人もいれば、
そうでない自分もいる。

立ち位置は人によりそれぞれ違うけれども、
自分の脳みそが描けとGOサインを出すのは
自分にとって面白さを感じているからだ。

面白さは多数決ではなく、競争でもない。
 
だから、自分を信じて、自分に正直に、
描きたい気持ちを捨てないで、
描ける機会をうかがって、
描けるときはいつでもすぐに、
描いてほしいと思います。
  
なかなか多くの人には届かないかもしれませんけど〜
でも、それでも
今年も「ひとつ」やります! やってます!
「叙情派ひとつ2016」より

我が家のベランダの棚の上にいつの間にか鳩が巣を作ってました。いつヒナがかえるのかな〜と楽しみにしてたんですが、半月ほどたってもいっこうにヒナの声が聞こえません。心配になって久しぶりにのぞいてみると、ヒナは2匹ともすでにかえってました!よかったよかった。

ヒナはピィピィ大きな声で鳴くものと思ってましたが、鳩のヒナはそうではないようでした。
気をつけて聞いていると親鳥が帰ってきたときにそれも小〜さな声でピィ・・ピィ、と鳴いてるのを1回だけ聞くことができました。

小さな隙間に巣が作れる小鳥とは違って鳩は
大きめの鳥なためでしょうか、わりとオープンな場所に巣を作ってたので、猫やカラスに見つからないように静かに過ごしているにちがいありません。

そこであらためて気づかされたのは
「見えているものしか見えていない」のだな〜
ということでした。それまで私には見えてなかった鳩さんなりの真実が少し見えました。

「見えてないもの」の中には一人一人の心の中、内宇宙というのもあるでしょう。
それをマンガ作品に昇華させて見せることには
意味があると思います。
たとえ読んだ人に
「個人的な経験なんだ、あんまり共感できないな」
と受け取られやすいとしても。 
この本ではあえて
「共感よりも自己主張」
を大切にしたいと思います。
ピィピィと鳴かないのなら鳴かないなりの。

これが私の見てきた せかい
これが私の望む せかい
これが今の私が描ける せかい
「叙情派ひとつ2015」より

日常をていねいに
自分の世界をていねいに
詩を読むように書くように
短くいとしく美しく

そういう本を目指していきたいです。
「叙情派ひとつ2014」より
「叙情派ひとつ2013」より

この日常を輝かせる粋な表現

先日矢車草という花の絵を描いた時の事です。
その花をよく知りませんでした。
そこでインターネットで「矢車草」というのを検索すればたくさん画像が表示されますので、それを参考にして絵を描いてました。
ちょっと買い物に行った時に道ばたを見ると、それまで気付かなかったのですが、矢車草の花がそこにあるじゃないですか!
ああ、なんという偶然でしょうか。
これ幸いとじーっと見てから帰りました。
帰ってからそれまで描いていた絵を見ると、形も色もどうも違うなと思い、ちょこちょこ描き直しました。

できあがった絵がそれで良くなった気がしてるんですが残念ながら客観的に判断出来ません。
でも実際に花を見てしまったので、自分の頭の中で こうなんだ、これでいいんだという、描いている時の納得具合は確かに違ってました。

「ひとつ」のマンガには作者さんが実際感じたものをできるだけ入れてもらうように、前回くらいからお願いしはじめました。
空想や願望だけでもマンガはできるのですが、あえて現実につなぎ止める糸を付けていただいているようなものかもしれません。

作者さんはそれぞれ自分の生活を持っています。
サラリーマン、店員さん、先生、アルバイター、主婦、絵描きさん、子育て中の方・終わった方・・・等々。
マンガ制作の時間を作るのも大変な方もおられるようです。
それでも無償でマンガを描いてるんです。
考えたらそれってけっこうかっこいい事だと思いませんか。

それぞれの事情の中で、それでも描いている。


昔の茶人ではないですが
庭に咲いていた花を        ←現実
どういうふうに茶室に飾るか?   ←マンガ
みたいな・・・

いざ、この粋なマンガの世界へ!
「叙情派ひとつ2012」より

漫画家の萩尾望都の対談集「コトバのあなた・マンガのわたし」(河出書房新社)を先日読みました。
思想家の故・吉本隆明との対談で面白いと思った部分がありましたので紹介します。

萩尾望都が自分はいやなシーンやキャラクターは描いてないし描きたくないと思っていて、それは逃避なんじゃないかと自分の嫌な部分として話されたときに、吉本隆明が、そうではないと話されました。
逃避とはたとえば少女漫画はこう描かなければならない、という縛りがあって自分の描きたいことが描けないのなら逃避といえるが、漫画のための妄想や「描きたくない」ということも含めて、自分の内面の欲求を正直に表現することはそれは作家としての資質である。ということをおっしゃってました。

・萩尾望都でさえなんでも自由に描いているわけ ではないこと
・自分に描けないことはムリに描かなくてもよく、 描けることを追求していく姿勢が表現者としては大切なこと

資質の大小はあるでしょうが、私も小さな表現するものとして心に響きました。

私はマンガにコンプレックスを持っています。
奇抜でおもしろいキャラクターを作って奇想天外な物語を作るファンタジー系漫画とか、人の生き死にや性的な表現を使って人間の根源に迫る、というような劇画的なものとか自分には作れないなという限界みたいなものを感じて、それがコンプレックスになってます。
そういう気持ちをいだきながら、この「ひとつ」という本を通じて自分なりのマンガ表現を探してました。

ですから、上述のやりとりを読んで気持ちが楽になった気がしました。
「自分の好きなことを、何に縛られることもなく表現していきなさい」と

私も「ひとつ」の漫画集の中でみなさんの心が織りなす世界を垣間見ることが毎回楽しいのです。
「ひとつ」という場でそれぞれ作家さんが本来持っている資質が十二分に活かせますように。
「叙情派ひとつ2011」より

小玉哲也さんというシンガーソングライターがおられます。
たまたま2年前に娘の吹奏楽が地域のお祭りで演奏した際に同じステージで唄われていた方です。
その後ちょこちょこライブにお邪魔するようになりました。

つい先日もライブを見に行きました。
ギターの澄んだ音と声とその表現しようとしている世界観。
その時私は、なにかこう、人が作り出す、美しく結晶したものに引きつけられるのだと、改めて思いました。

今回音楽CDをこの本のオマケで付けさせていただきますがその仲野友恵さんも、そういう中でたまたま出会った好きなアーティストさんです。
その方のCDを買って、寝る前に何度も何度も聴いてました。

そういえば昔から楽器の「音」が好きでした。
まったく弾けはしないのだけど、「音」が好きで楽器を集めたりもしました。
ピアノやベルの一音だけでも聴いていると幸せなのです。
共鳴と長い音の余韻・・・。


マンガでは、たとえると「びっくり箱で驚かせて楽しませる」というような作品が多いように思います。

でもマンガで描けるのは「びっくり箱」だけじゃないきっとさまざまな表現の可能性を秘めているでしょう。
「びっくり箱」は何度も見るものではありませんが、音や音楽は、何度も聴きたくなるものが多いです。

私が「ひとつ」で描こうとしているマンガって少なくとも「びっくり箱」じゃないようです。

自分に合った方法で

自分の描きたいように
「叙情派ひとつ2010」より

作品を作るには作品に集中できる余裕が必要です。
生活の時間的な余裕と体力・体調の余裕と。
引越しの前後で落ち着かないときはマンガは描けないという話をよく聞きます。
また風邪などで体調を壊した時には、気力だけではどうしようもないときがあります。
そういうようにマンガが描けるだけのちょっとした余裕があることは幸せなことです。
同じようにマンガを読むのだって余裕が必要です。

余裕がないときは、好きな音楽さえ受け付けません。
ただ、ひたすら眠る、とか。お医者様にたよる、とか。

歳をとってきたせいか、そういうことが余計に気になります。
日常のいろんなことに追われながらもマンガを描いたりマンガを読むための時間をなんとかかんとか確保して今ここに集まることができたことに感謝したいです。

ここに偶然にも集まった私たち。
「参加してよかった」「読んでよかった」と思っていただけますように。
2009年7月「叙情派ひとつ2009」 より

「ひとつ」では短いページの中に作者さんの感じた素直な感情が表現できたらいいな、見てみたいな、と思って続けてるんですが、その中で
「詩のようなマンガ」とか「俳句や短歌のようなマンガ」という言い方を時々使ってます。それは表現したい一つのことをそれに絞って端的に表現するのが似ているかな、と思ってのことです。

まあ、ボクの知っている俳句は「古池や蛙飛び込む水の音」とか
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」とかその程度なんですが、専門的な解説はあるのでしょうが、実のところ、それらの句を聞いてもそれがどうした? 程度の感想しか正直無いといえば無かったわけです。

俳句で「それがどうした?」だったら「ひとつ」でも同じなのか?
いやそんなはずはない・・・じゃあなんなのか・・・
ちょっと無視したい気持ちもありながら、ちょっと焦りも感じます。
ときどき思い出したように考えてました。

ある時、ふとこれらの句が読まれた時代のことを想像したときに、なんとなく合点がいきました。同じように皆さんも想像してください。
今のようにTVや写真がなく、本も無かった時代に、目の前の情景をその雰囲気のエッセンスを捉えて「作品」として定着する手法として俳句というのがあったのだとしたら、それは茶道のように実に洗練された情景描写の手法だったと思ったのです。
その時代の人が俳句という短い言葉を耳にしたときに、さっと目の前に見たことの無い風景が美しく広がっていくような経験ができただろうと思います。
そう思ってもう一度先の俳句を詠むとちょっとだけ広がるでしょ?

そう思い至った時に「ひとつ」の方向性もまんざら間違いでもないという気がしてやっと安心できました(笑)。

ある出来事や事象を額縁に入れるように「作品」として定着することは、作り手として達成感のある作業です。

さあ「ひとつ」の作品をじっくり味わってください。あなたの頭の中に作者さんが感じた心の風景が広がり、そしてなにか少しでも残りますように。
2008年7月「叙情派ひとつ2008」 より

子供の演奏会のからみで吹奏楽を聞く機会がありました。

その中で、ロボットアニメのジャイアントロボの音楽を演奏していて
とてもドラマチックで感動しました。
演奏会にはいろんな楽団が参加していたのですが、
その吹奏楽の演奏者は100人はいようという大規模な吹奏楽団でした。

大規模な吹奏楽はたとえば映画の戦記もののテーマ音楽など
壮大なスケールにこそ似合うでしょう。
今の時代に、戦争ものやそれをあおる系の行進曲は
ちょっとこちらの気持ちがついていかない部分があって
吹奏楽っていう時代でもないのかな、と思いながら、
その日演奏される昔の名曲たちを聞いてました。
オーケストラよりも表現の幅がもっと狭い気がする吹奏楽。
時代に合わない大規模音楽…。

そんな思いがよぎる中「巨大ロボット」は、なるほどいい素材だ、と思いました。
戦争などには思い入れなくても、ロボットアニメになら思い入れしやすかったです。
曲と演奏が良かった、ということはもちろんでしょうが。

二十数年前電子音楽が流行りだした頃、自分もちょっと興味があって
自分でさわったり、坂本龍一さんや細野晴臣さんの音楽を聴いたりしてました。
そんな中で、ピコピコという当時としては新しい電子音には
その電子音に似合うリズムや旋律があるのだな、と感じました。
シンセサイザーで「新しい音」が現れると、それにふさわしい「新しい音楽」が生まれる。

吹奏楽の大きな編成では、それに似合うスケールの大きな音楽があり、
小さい編成の楽団にはジャズとか別の曲が似合ったり、
ギターの弾き語りにはそれに合う、
そして電子音にはそれに似合うそれぞれ別の音楽がある。

劇場用セルアニメの表現と個人の手書きアニメ作品で
それぞれ表現できるものが違って、それぞれに別の味があるように。

そしてマンガも同じように。

「ひとつ」のような短い作品たちは「ひとつ」な色があるような気がします。
自分にとっては「ごく個人的なささいな出来事を大切に表現する」
というようなことなのかな、と今は解釈してます。

そんな短い表現の中でも、この本の作品に見られるように
たとえば描く道具をペンからエンピツやパソコンを取り入れたりすることでも
新しいことが始まるはずです。

表現に、ある手段を選んだ時に、
その手段に似合った表現というものが存在する気がするわけです。

だけど…あるときはそれを上手に裏切りながら
今の自分の気持ちに沿った、新しい表現にも挑戦していけたらいいと思います。
「戦争もの」→「巨大ロボット」のように。

この本に、奇跡のように集まってくれた作品たち、作者さんたち。
その本を、偶然手にとってくれた人たち。

ありがとう
〜 心に小箱を 〜 2007年7月叙情派「ひとつ」7号 より

人は生きている間に いろんな人から影響を受ける
そして思わぬ人へも影響を与えることがある

今キミがなにげなく発した言葉が
遠くで聞いていたボクの心の端っこに
ひっかかる

キミがうらみをこめて発したものは
ボクの中にそれが広がる

キミが楽しさをもって発したものは
ボクの中にそれが広がる
 
どんな気持ちが生まれるかなんて
コントロールできないだろう
けれど…たとえば

心の中にちいさな小箱を持とう
その小箱の中には大切なモノを入れておくんだ
嵐が何度もきたら
きっとその小箱は消えそうなくらいに
小さくなるんだけど
見失わないように、忘れないように持っていよう

そして寝る前の静かになった一瞬だけでも
そっと開けて中を見るといいんだ
その小箱の中の光をみると
きっと少し安心するんじゃないかな

ボクはマンガで
その小箱のかけらを少しでも形にして
誰かに見てほしいと思ってるんだ、きっと
それがボクがマンガを描く理由だったりするんだと思う

そりゃあ、悪魔の小箱なんてのもあるんだろうけど
ちょっと取り出しにくいところに置いとくんだよ
そうするとすぐに小さくなって
そのうち見つからなくなるから


人は生きている間に いろんな人から影響を受ける
そして思わぬ人へ影響を与える

きっとそうなんだ
だから
歳をとったり、心がすりへったりしても
小さな小さな小箱は大切にもっていたいな

そして「ひとつ」の作品たちは
キミの小箱のそうじができたりなんかするんだったら
うれしいな …そうだといい
2006年6月叙情派「ひとつ」6号 より

こころとからだは気まぐれだ。
マンガを描こうと思っててもどうしても、気持ちが向かない時がある。
別のことにはまってしまって頭の中がそればっかりに支配されてしまう。
ボクの場合は「日曜大工やりたい」だったり「釣りに行きたい」だったりいろいろ。
突然そんな状態におちいってしまう。
またあるときには、からだがだるくてねむくてしようがないこともある。
十分睡眠はとっているのにふしぎとからだが動かない。

そんな時は、気持ちのおもむくままにやりたいことをやってみる。
おもいきし寝てみる。
自分の体からくる信号に逆らわないで好きにさせてみる。
ひとしきり別のことをやってみると頭と体がすっきりしてようやくマンガと向き合えるようになることだってある。
次はマンガの番だっておもえる状態になっていることがある。

マンガ、マンガって頭で考えすぎると体のどこかで反乱を起こしている時もあるのかな。

無理に描かなくてもいいんです。きっと描きたくなるんです。好きな人に手紙を書きたくなるように。
短い手紙でいいんです。

たしか「ひとつ」って本で原稿募集していたな、って思い出して描いてやってもいいかな、なんて思うときがくるんです。

そして「描いたよ」って言ってください。

「待ってたよ」って言いますから。

そんな「ひとつ」でありたいです。

2005年7月叙情派「ひとつ」5号 より

作品の永遠性
以前、作品には永遠性が必要だ、ということを助言いただいたことがあります。
それは時代に流されない、ある種の真実という部分を作品に入れていく、ということではないかと自分なりに思うわけです。
大げさなことじゃなくてもいい、自分が生活している中で心に残っている出来事、それが何故心に残ったのかを含めて表現できたら・・・。
誰の心の内にも生命の宇宙が広がっており、その深いところに沈んでいたもの、それはきっと人間の持つ根源的な感情であり、そこからある種の真実をつむぎだせるのではないかと思います。
その表現手段として時には想像の世界を使い象徴的に表現する場合もあります。
大切なのはその心の動きは本物か? どこからか借りてきたものではないか?
ということだと思います。
その真実らしさが作品に永遠性のカケラを添えてくれるのではないでしょうか。

作者の体験に基づいて脚色されたであろうマンガ作品を何度か読む機会があり、いづれもその作者のそれまで作品とは違った面白さを感じました。
人のおしゃべりも、新聞で読んだ内容を話している時より、その人の実体験の話の方がおもしろい事が多いような気がします。
実体験からきた話の面白さには、きっと小さな真実のカケラがついているのです。

色あせていく現実と、それに逆らおうとする作品制作と。
作品があなたにいつか出会って、そのとき少しでも心に残るように・・・ 
そのため作品に永遠性を添えていく。ちょっとロマンチックな想像です。
2004年7月叙情派「ひとつ」4号 より

ボクがマンガをねり出す過程というのは…
ウン十年たっても覚えている感情があって、それを引出しからむりやり引き出して、いくつかの記憶の断片をつなぎ合わせてそれをひとつの標本にする、みたいなかんじです。

そうそう、たとえると…
古い地層から小さな骨をいくつか発掘して、それらの骨の断片をつなぎ合わせて、想像上の新しい生物の骨組みを作り、肉付けして標本箱に入れる。

ということで「ひとつ」はさながら静かな博物館。

読者はその静かな博物館でガラスケースに入った展示物を見て回るのです。
ひとつひとつの展示物は決して声高にはしゃべらないけど、
じっと眺めていると――― 静かに深く語り掛けてくるものがあるでしょう?

「これに似た生物を見たことあるぞ」
「これはなんと美しい鉱石だ」
きっとここの展示物は、見る人によって形が変わったりもするのです。

あなたのお気に入りの展示物が見つかりますように。

2003年7月叙情派「ひとつ」3号 より

ボクらは美しい共鳴を夢見ている
ときどき古ーい曲を思い出して自転車で口ずさむことがありますが、そんな時にボクは、その曲を作った人に
「今ここであなたの曲を歌っているんだよー」 と伝えたくなります。

作品というさざなみは、時間と空間をこえて人の心をゆらします。

先日の新聞に、田舎でひっそり暮らしてると時代や社会に取り残された気がして不安になる、という方がおられるという記事を読みました。
会社や学校あるいは社会や家庭で、自分の居場所を感じなかったり自分の存在価値を感じない時はつらいでしょう…。

それはちょうど波ひとつない広い海原にひとり漂っているイメージでしょうか。

作品を作ることは、さざ波を立てること。
作品に出会うことは、そのさざ波を受け取ること。

…よろこび、怒り、悲しさ、楽しさ…
いろんな心のゆらぎを感じ、また表現して、それらのやりとりは自分自身を確認することにもなるのでしょう。

いっぽう暴力という波をたてて自分の存在を示す人もいるようですが…。
そういう形でしが自分を確認できないのなら、哀れむべきことです。
そういう荒波ではなくて…

ひととき美しいさざなみの共鳴のなかに自分の身を置けたら、と思います。

「ひとつ」は小さな波ですが、遠くに深く届く波になれればいいな、と思います。
2002年7月叙情派「ひとつ」2号 より

自分が生かせるチャンネル
ボクもたまには格闘マンガ読んでスカッとしたり、SF映画観て楽しんだり、お笑い番組で笑いこけたり… 自分の中に違う傾向のチャンネルみたいなものを持っています。常に叙情的なものを指向しているわけではありません。
でもマンガを描く時はマンガ専用のチャンネルで取り組んでいる気がします。というのも いくら格闘マンガが面白く読めても自分で格闘マンガが描けるか、描きたいか、というとそうではありません。

人によっては、マンガを描くにしてもギャグとシリアスなど多彩なチャンネルを持っている人も多いようです。
ボクからみるとそんな多彩なチャンネルを持っている人はうらやましいわけです。
でも不器用かもしれませんが自分には自分に合ったチャンネルがあって、そのチャンネルで力を発揮していくしかない、というかそうしていきたいと思います。

もちろんある程度の挑戦は必要ですし、勉強も必要になることもあるでしょう。
でも行き着くところは白い紙に向かって集中した時に出てくる気持ちの持っていく所をきちんとくみとって形にしていくことが大切なんじゃないかなぁ、と思います。
自分専用チャンネルを磨いていきたいです。

「ひとつ」という本を通じていろんな方の作品に出会うことができます。しばらく自分の「叙情」チャンネルを開いて お楽しみください。

メールマガジンで創作にまつわるおもしろい話を見つけたので紹介します。
時々、「どうして同人誌を、マンガを続けられるのか?」というような質問を聞くことがあるので、その答えになるかな、と思いました。
■ “耳からうろこ”
先日、友人の「お誕生パーティー」というものを盛大に催しまして。
ミュージシャンや飲み友達大集合で朝まで大騒ぎしたわけです。
我々のように平均年令40前ともなると「誕生日」は決して目出度いばかりのものではないんですが、誕生日にかこつけてのドンチャン騒ぎ…それ以外にも「パーティー」には大切な意味があると思っています。

人は歳をとるにつれ、楽しい思いと同じ数だけ辛い体験も重ねてゆくものです。
辛い体験は乗り越えれば「知恵」「経験値」に変わります。
過ごして無駄な日々はなし。でもいわゆる「年の功」として身に付けた賢さが、人間から溌剌さや無鉄砲さ、衝動などを奪ってしまう(良くも悪くもね)
…そんな光景を結構目の当りにする年頃なんですよ40前って。

『音楽を「ずっと続けて行く」事が大切で難しいのだ』と昔憧れのミュージシャンに教えられたものですが、子供の頃はその『難しさ』って生活の都合や才能のコトを言っているのだと思っていました。
実家を継ぐから田舎に帰って音楽は辞めるとか…
才能ないからおれは辞めるとか…お金が続かないからってバイトしてるうちにそのまま就職したとか(笑よくあるハナシですよね。
…いいえそんなものは難しいウチに入りません!

どうやら音楽を続けて行く難しさは「続けて行く動機そのものを維持する」ことの難しさにあるようです。年令を重ねて身に付けた知恵や知識が、自分に対する新鮮さやモチベーションを奪ってしまう恐ろしさ。
知恵と言う名の武器が敵に変わる瞬間。
それを知っている同世代がパーティーの名の下に集まっては酒呑んで騒ぎ、励ましあい、ぶっ潰れアタマを真っ白にするんじゃないかなー。

『転んでも転んでも自転車に乗りたい』のが子供の心。大人になるとつい…
経験が足をすくませる。音楽を続けて行く上でのハードルもこれと同じなのではないでしょうか。
                              by-TANE-
引用文:メールマガジン「XG by YAMAHA Information October.2001」より引用
興味のある方はこちらへ mailmagazine@mix.yamaha.co.jp

■以上です。
いかがですか? ボクにとってここでいう「ドンチャン騒ぎのパーティー」は同人誌即売会なんじゃないかと思ったわけです。
続けていく動機・・・。同じマンガを描く仲間の存在を身近に感じることはなによりボクの創作の動機だと思いました。
また、今後ネットでリンクされた多くの仲間たちの存在も大きなウェイトを占めることでしょう。

メールマガジンの引用掲載につきましては担当の方のご了解をいただきました。ありがとうございました。
2001年11月3日
2001年7月叙情派「ひとつ」1号 より

世の中にはたくさんのマンガがあります。
本屋さんや同人誌即売会などでたくさんのマンガ作品を見ることができます。
その中に、たくさんのマンガの中にまざって、強烈な光で目立つ、ということはないけれども、個性的でやさしく豊かな光を放つ作品がところどころにあるのです。
そんな作品を見つけると、とてもうれしくなります。
作者さんのやさしい気持ちに触れたようになります。
道端の小さな花が、よく見ると とてもいとしく美しく思えるように。
――― 「にわぜきしょう」 という紫の小さな野の花が個人的に好きだったりします。

この本は、そういう作品がたくさん読める本として、そんな作品を描く作家の集まる場として 作っていきます。
できるかぎり継続的に活動していきたいと思っています。

この本で目指す「叙情派マンガ」とは気持ち(ココロ)が込められたマンガです。
ひとつひとつの作品が放つ 豊かな輝きを 見てください。

先日ラジオでフォークソング特集やってまして、久しぶりに昔良く聞いていた音楽に巡り合いました。
自分の持ってる古いカセットテープも引っ張り出して聞いていました。中島みゆき、谷山浩子、コッキーポップの曲・・・。(中にはフォークって範疇か疑問もありますが)
10代に聞いた曲って残っているなあとしばししみじみ。
そして、フォークソングってほとんど「叙情派」だって気づきました。
短くて叙情的なマンガを作るって事は、マンガでフォークソングを作るというような事なんだろうなとぼんやり考えました。

2000年8月23日
リリカルな作品ってそんなに量産できるものでもないかもしれない、という気が最近してます。
キャラクターをたてて奇抜な状況設定して話を作るほうがぜったい、たくさんのおもしろい話が作れそうです。
ある意味で、商業的なベースに乗りにくい、乗ってても長続きできない、編集もこだわり続けられない・・・、そういう気もしてます。つまり、少数派である、というようなことです。

それでも、それだから、叙情派にこだわりたい。それはなにより、リリカルな作品は読んでいて、人の心の奥にそおっとふれたような感じがして好きだからです。

1999年9月28日
絶滅寸前の叙情派マンガをバックアップしよう!ということで、このサイトを立ち上げました。

店頭に並ぶ多くのマンガ雑誌の中でも、いったいどの雑誌が似合うのだろうか?と行き先を見失った、叙情マンガ達。

マンガの描き方、には必ずといっていいほど、キャラクターを作り、ストーリーを作り・・と書いてます。
そんな、おもしろいマンガを作るノウハウとは、ちょっと無縁の小さなマンガ達。

マンガ同人誌の世界をのぞくと、時々、とても、心にふれる小さなマンガ作品があるじゃないですか。
書店に並ぶ雑誌にも、ボクの目にはふれないだけで、そんな小さな作品が埋もれているかもしれない。

そんな作品たちを紹介していきたいんです。

1999年8月24日

文責:秋元なおと/ N.Akimoto